粉河寺


孫が風邪を引いているということですからお見舞いに行ったのですが、顔を見たとたんに泣かれてしまったので、頼まれ物とお土産を置いて早々に家を後にしました。

三十三箇所廻りで和歌山方面では粉河寺だけ残っていましたので、折角泉南まで来たのですから、粉河寺まで足を伸ばすかということになり、急遽粉河寺まで行きました。
犬鳴温泉方面の山越えをして行きましたので、帰りは温泉に入って帰りたかったのですが、化粧を落とす化粧品がないということで温泉には入れませんでした。女性はたいへんですね。温泉には入れませんでしたが粉河寺は立派なお寺でした。
 少し勉強しましたのでご紹介します。

開祖 大伴孔子古(おおとものくじこ)
宗派 粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)
本尊 千手千眼観世音菩薩
     (せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)
西国巡礼3番札所

【草創】 

奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てました。
 後日、一夜を泊めてもらった童行者がいて、そのお礼に孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。
 その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていました。そこへ童行者が訪ね来て千手陀羅尼を誦して祈祷、やがて娘の病は回復しました。

 童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去りました。
 翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川を遡り庵を発見しました。

 扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。この開創の由来は、当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等にて伝えられています。


【沿革】
 草創時粉河寺は多くの人達の信仰をうけて繁栄し、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領四万余石を有していたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失しました。その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成しました。

http://www.youtube.com/watch?v=NdoGxto0s0A 粉河寺の写真です。