御寺 泉涌寺(みてらせんにゅうじ)今熊野観音


東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺西国三十三箇所の15番札所、新那智山観音寺といいますが、土地の人達には今熊野観音として崇められています。
今熊野に行きましたら西田屋の「しば漬け」を必ず買って帰ってください。これは本当に美味しいです。細かくきざんでご飯にふりかけて食べれば、それでご飯二杯は食べれますね。こういう言い方をするときは普通は「ご飯三杯は」というのが常ですが、歳ですから二杯以上は食べれません。

折角お参りをいたしましたので少し勉強をしました。
当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
大師は肥後国熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、真俊大徳に師事して修学、大志をもって求法のため中国の宋に渡り、滞在12年、顕密両乗の蘊奥(うんおう)を究めて帰国した。帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、当寺を律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれた。
したがって当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依された。大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。その後、南北朝安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。
ということでございます。