禅の教えのように当たり前に

禅の世界ではどんなに深い真理でも、日常物を食べるように、お茶を飲むように当たり前のこととして実践されなければ意味がないと教えています。
これを日常生活に当てはめると全くそうだとおもいます。
例えば諍いが起こります。その原因は大抵は欲望や不信感、自我の主張というものが原因です。
それらの原因は無智によって生じます。
何が道理かを見極めたうえで、その道理に則って当たり前のこととして言動を取れば諍いは起こらないのです。
例えば親とお金とどちらが大切かかという点です。
誰が考えても親であることは道理です。その道理に則って親を優先して大切に扱っていけば、年老いて寂しい思いや悲しい思いや苦しい思いをすることは減退するでしょう。
だけど各々が、自分が楽な思いをしたい、楽しい思いをしたいという、欲望や自我を優先させてしまうから、力のない年寄りは寂しい思いをしてしまうことになります。
誰もが必ず年老いて行くことは道理です。
必ず通る道です。必ず通らなければいけない道を苦のない世界にすれば人生はもっと楽しくなるでしょう。
年老いて寂しいことや不安の無い現実ができあがれば、年寄りはもっとお金を使うかもしれません。
禅の言葉のごとく真理や道理を、お茶を飲むごとく当たり前として、言動が取れるようになればもっと世の中は良くなることは確実です、
逆に自我の主張ばかりが横行する世の中になればますます住みにくくなるでしょう。
自由とは何か。心理や道理を阻害するものは自由ではありません。
今は皆さん知識が豊かで物知りですが、最も肝心なことに疎くなっているとは思いませんか。