舐めたら駄目


修とはおさめるということで、この段階も大変難しいですね。
 着付けを例にしますと、みなさん着れるようになりたいと考えてお稽古に来ます。
でも着れるようになれる人の確率は物凄く低いのが現実です。
 フォーマルはもちろんですが、街着も最近はみなさん町では上手に着ておられます。したがって習ったとしても、そういう人達と比較して、上手に着れている自信がなければ外に着て出れません。恥ずかしくて外に着て行けない着付けでは着れたという事にはならないでしょう。現実にはそういう人の方が多いのです。
 その現実を直視しますと、たかが着付けです。その着付けができないということは如何に「修」の段階を極めることが難しいかという事です。
 
 何故そうなってしまうのか。それは前回の分で記したように今は趣味の延長としてお稽古に来られており、自分を磨き鍛える場という考えがないからです。
「頑張りましょうね」「頑張らなければ」と叱咤激励しますと、趣味の延長で捉えている人は、「別にこれを職業としたいと思ってないし」「別に先生になりたいと思ってお稽古しているわけでもないし」などと自己弁護します。
 例えば「自分は街着が着れたらいいだけですから」という線を引く人がいます。
 人というものは不思議なもので、ここまででよいという線を決めたら、ほとんどの人はその線を越えられないでその手前で停止してしまいます。
 そこは通過点と考えている人はその線を越えて前に進めます。お稽古の成果にとって一番大切なのはヤル気という精神面です。
 楽な位置に線引きをしている人は、そんな程度のものは直ぐに出来るようになるだろうという軽い気持ちで臨むからです。ウサギとカメの競争と同じです。
 器用な人でも楽な位置に線引きをしている人よりも、不器用でも志を高く持って取り組む人は確実にその線を越えれるのです。
線引きをしている人はどうしても取り組みが一生懸命になれないのです。
 楽な自分のペースで進めてしまうからです。自分の楽なペースで進めて出来るようになるほど簡単なものは何一つありません。
 簡単であればお金を得て主催することなどできないのです。お金を戴けるものはそれなりの難しさはあります。以前に記しましたように6か月無料というところがあります。私が教えている時に何人かそこの卒業者という人がお稽古に来ていましたが。下手も下手くそで見るに堪えない着付けしかできていませんでした。只という自分を追い込む必要のないところでお稽古してきたからです。

 人は努力すれば光る能力を持っているのですが、努力もしないで舐めて見てしまうという大きな欠点をも持ち合わせています。それは改めなければいけませんね。