「修」「破」「離」


お稽古事の進め方の理想に「修」「破」「離」というのがあります。
現在はお稽古事と言えば趣味の一環と捉えておられる人が多いのですが、昔は教養の一環として、自身を磨く一つの手段として考えていました。
 他者に好まれる人間になる。他者に役立つような人間になる。そうなることが自身の人生を有意義に充実させたものになるという考えであったのです。
 だから何かに取り組んだならば「離」の段階まで進まなければいけない、そうすることによって本当の意味で自信を磨き鍛えることが出来るということです。
 「習わんと思う心こそ我が身ながらの師匠なりけれ」という言葉があります。
「こうなったらいいなぁー」「こういうことがしたいなぁー」と思念しているだけでは一歩も前進しません。現実に自分の手で櫓を漕いで船出をさせなければ何も得られないし何も身に付きません。そういう意味では何かを始めることは「我が身ながらの師匠なりけれ」となり大切なのですが、始めたならば確かな目標を持って確りと櫓を漕がなければ船は前に進まないのです。遊び半分、娯楽の延長気分ではどうにもならないのも確かです。
 娯楽の延長気分でどうにかなるようなものでしたら、わざわざ貴重な時間とお金を投じてお稽古する必要のないでしょう。わざわざ貴重なお金を投じてお稽古しなければいけないものは全てそれなりの難しさはあるのが道理なのです。
 
 やると決めたら頑張らなければいけないのです。頑張らないで自分を磨き鍛えることはできません。自分を磨き鍛えないで自分の人生を充実させたいと念じることが矛盾です。
 若い人、特に女性は白馬に跨った王子様が出現してくるように思っていますが、現実にはそんに素晴らしい男はいません。
また自分が努力もしないでそんなに素晴らしい男が付くはずがありません。
他力に頼るのではなく、自力で人生を充実させる努力をしなければ人生はどうにもなりません。
そのためには思念するだけでなく自分を磨く何かが必要なのです。
 今の若い人は頑張るという事を忌み嫌う人がいますが、誰かが陰で助けてくれているからそんなことが言えているのでしょう。
またそういいながらも嫌々ながらも生活のために働いているのでしょう。
 同じ働かなければいけないのであれば少しでも収入がよく、働き甲斐のある仕事をしなければ損ではないですか。そのためには自分自身に値打ちを付けなければどうにもなりません。