団欒とエゴ


正月は 炬燵の回り 花が咲く

  炬燵の周りには沢山の花が咲いています。
そんな中に少し色褪せた老いの花が招待されて添えられています。
お正月には子供たち全員が揃って楽しく語らっている姿は見ていて微笑ましくもあり、私にとってはまぶしく羨ましい光景です。
私の家では家族団欒の光景は既に消え去っているからです。
私の所だけでなく、最近は家族全員が集まるという光景は少なくなりつつあります。
普段は各々が仕事に忙殺されてなかなか逢うことが出来ない。せめて正月ぐらいは親元に集まる。
それは苦労をして子供を育てた親に対する感謝であり、神が与えた親の特権という褒美です。
 特別に何もしてやることができなくてもせめてそれくらいの親孝行をするのが人間として常識だと思いますが、最近は親元に行くのは嫌だけど、正月ぐらいは我慢して顔を見せに行かなければ仕方がないだろうと考える人も少なくありません。
そのように考えている人はどんなに繕っても、顔や言動は心の現れですから嫌々義理義理の心は直ぐに分かってしまいます。
分かっていても「来てくれるだけましか」と我慢をして時の過ぎ去るのを待っています。哀れで少し寂しい光景です。
  
 そんな心の親でも自分の子供は賢くて、心優しい人になって欲しいと念じています。
親は子供の心の内は分かっていますが、子供も親の心はお見通しです。
自分の親がおじいちゃんやおばあちゃんの家に行っても喜んでいない。楽しんでいない。むしろ迷惑に思い嫌がっている。
親を大切に思っていない。感謝の気持ちも感じられない。そんな自分の親を見ていて、その子供が良い子に育って欲しいと考えても、それは無理でしょう。
最近はそういう関連性に対して理解の出来ない自己中の人が増えています。
大人は今の子供達はと批判しますが、その子供たちをそのようにしてしまったのはすべて大人なのです。大人の心がすべて投影されていることを忘れてはいけないでしょう。