人生は登り坂No21

野球は全くやったことがなかったのですが、野球をやりだしますと面白いのでのめり込んでしまい、尼崎に来てからの遊びは野球一辺倒になりました。
足も速かったので小学校のクラス対抗試合ではいつもレギューラーでした。
中学に入っても野球部に籍を置いていましたが、一度もクラブ活動に出席できませんでした。

親から小遣いというものを貰ったことがありません。正月に一度もらうだけです。
お正月にはおじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんと友達は沢山お年玉を貰っていましたが、私の家は夜逃げのようにして尼崎に来たものですから知り合いもいませんので親からもら分だけです。
親から貰えるお年玉はしれていますので直ぐになくなります。それ以外に小遣いはありません。
 友達と遊んでいると友達は毎日小遣いを定額貰っている人が多く駄菓子屋にいきます。私は付いていくだけで何時も惨めな思いをして見つめていました。5年生になった時に小遣いがほしいので新聞配達をしようと考えて、配達所に頼みにいきました。
そうすると配達は中学生以上でないとさせられないと断られました。
 それでも私の頼み方は真に迫っていたのでしょうか、配達はさせてやれないけど、販売の方だったらさせてやってもいいと言ってくれました。
X状の脚二脚の上にベニヤ板を載せてその上に新聞を並べて売るのです。
当時はまだ家で新聞を取っている家庭は少なかったので「朝刊如何ですか」と呼び込みをすれば結構売れました。
 新聞は配達をする分と,買いに来る人がいますので、それをみこして余分に新聞社から送ってきます。
残れば返却するだけですから、売れれば歩合がよいのです。
販売所の社長曰く、私は配達をする人ぐらいに稼いでいるという事でした。それでもそのお金を自分のために使ったことがありません。すべて母親に渡していました。
休まず真面目にやっていましたので販売所の社長も喜んでくれて、中学になったら直ぐに私に配達をさせてくれました。
中学の三年間は一日も休まずに新聞配達をしました。それがあったために野球部に籍を置いていましたが一日も参加できなかったのです。