清荒神 宝塚



 清荒神清澄寺平安時代の初め、宇多天皇の創意による理想の鎮護国家、すなわち諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建されました。
 天皇讃岐国名工、定円法眼に命じて曼陀華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平8年(896)に、叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖としました。

 当時は猪名の平野や武庫の浦が一望に見渡せる旧清と呼ばれる山の尾根に清澄寺を、そして西の谷に鎮守神として三宝荒神社を祀りました。山号である蓬莱山の由来とする現在の長尾山系の七嶺七渓に、七堂七十二坊の荘厳な伽藍を造営し、宇多天皇より日本第一清荒神の称号を与えられ蓬莱山清澄寺としておおよそ300年栄えました。
 その後、平安時代末期の源平合戦や、天正年間の荒木村重の乱などの戦火により何度も焼失しましたが、荒神社のみはいずれも難を免れ、やがて清澄寺も西の谷である今の地に再建され、江戸時代末期、一代の名僧浄界和上の諸堂再興により現在の山容が形づくられ伽藍が発祥しました。
当山は火の神、カマド(台所)の神としてあがめられ、また各種の現世利益を祈願されるご参詣の方で賑わっています。
 三宝荒神さんは火の神様で昔は竈のある台所には必ず神棚が設けられ祀られていました。
私の家の台所にも神棚が設けられ三宝荒神さんが祀られていました。
 お元旦には先ず初めに三宝荒神さんにお神酒を捧げて手を合わせてからお屠蘇を祝いました。
何故だか知りませんが三宝荒神さんは男の人がお供えをすると喜ぶからと言って母は何時も私にお供えを手向けさせました。その母が懐かしいです。
 清州荒神は以前に一度来たことがあります。荒神さんは阪急電車から降りて登って行くのが本来の参詣道で門前町が連なっていて趣が深かったのを覚えています。
駐車場のある位置からは以前に来たときは店がなかったのですが、最近は車で来られる人が多いので駐車場の所から出店が連なっていて昔とは随分変わっています。