ものにならない人


書道の先生に「生徒募集」と書くと、来て下さいとこちらからお願いをしていることになる。「お願をしておいて厳しく接する事はできないでしょ」と諭すように言われたことがあります。
 どんなものでもお金を頂いて行っている事は全て営利事業です。お茶やお花のお稽古事の世界が営利事業であることを分かっていいない人がいるのが不思議です。威厳と尊厳を高めるために神格化したがっていますが、営利事業であることに変わりはありません。
 営利事業で有る限りは宣伝行為云々よりも、お金を頂いているからこそ責任と使命感を強く持って指導に当たるべきではないかというのが私の考えです。

 お稽古に来られる人の中には、貴重なお金と時間を費やしながら遊びの延長で来ている人も少なく有りません。そういう人達の方が多いというのが現実です。最近どのお稽古事も衰退してきているのは、不景気になって遊びで来る人が少なくなったからです。
 一生懸命に取り組め無い人をどう導くかを考えますと、形は全て心の現れですから、前向きに取り組むように意識改革をして行くことが一番大切です。意識改革の為には黙って見て悟れは通用しませんので、嫌がられてもうとまれても戦ってこちらを向かせなければいけません。
向かせる手段は何が道理かを説いて同意を求めて行く以外にありません。

 筋道を立てて同意を求められると面と向って逆らえません。
 誰が聞いてもごもっともという事に対しては、そのことに逆らうとあの人は駄目な人というラベルを貼られることになりますので、猫を被って良き理解者を装います。そう仕向けて行く事が指導者の一番の仕事です。
 そういう能書きがどうしても嫌で耐えられない人は、少しでも早くに辞めようと話を聞いた段階から逃げる機会を窺っています。

 鳩山総理は全く分かっていません。何をやっても100%支持される事はないし、100%皆を納得させることも出来ません。如何に%を高めるかが課題なのですから、指導者は断固として意志を貫く決意が必要です。
 それはお稽古事でも一緒です、意に添わなければ辞めたらいいねんという割り切りも必要なのです。そういう決意のもとに様々に能書きをたれてきました。
 よく折角お稽古に来たのだから「きちっと出来るようにしなければ」と言いました。そうすると中には「私は別に指導者になろうと思っていないから」「別にプロになりたいと思っていないから」と一生懸命に取り組めないことを自己弁護します。
 そんな人達でもどの程度出来るようになりたいのかと聞きますと「上手に」と答えます。
上手というのは現実にはどのようなものか。
 技能には下手・普通・上手とあります。
上手の見本は先生です。先生と同じように出来て始めて上手に出来るようになったと言えます。
 技量だけでなく上手に出来るようになって始めて、そのものから大きな楽しみや喜びが得られるようになります。
 お稽古事というのはプロになるとか指導者を目指すということに関係なく、始めた限りは上手を目指さなければいけないのです。それを自分はプロになるつもりはないなどと言う人は井の中の蛙大海を知らずです。
 何のためのお稽古をするのか。心の潤いを得るためです。より大きな心の潤いを得るにはどう取り組むべきかを考えるのが正当な思考です。そのためには上手に出来るようになることが必須です。
そういう理屈は苦労して頑張ってこそ体得できます。頑張りもしない人間には理解できません。理解できていないのに自分は偉いと自負心を持って、マイペースを貫く人が多いのが世の中です。

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