(人生の思い出No7)


よくよく考えれば大福餅なんかいくら売れたとしても一家5人が食べて行けるはずがないのです。
早々に露店はやめてある時から親父が阪神電車の車体を洗う仕事に行きました。今は車の洗車のように機械で洗うのですが、その時代はまだ機械がありませんので長い竹の先にブラシを付けて洗うのです。
きつい仕事だと一日目に親父はぼやいていたのを覚えています。そして4日目には仕事に行かないで家にいます。なんで家にいるのかを母に聞きますと定期を落として行けないという事でした。
きっと定期を買うお金を使い込んでしまって電車賃がないからだと思いました。なんとか理由をつけて仕事にいかなくて済むようにしていたのです。その時は私はまだ子供でしたが、こどもながらにこの親父はよくよく仕事が嫌いなんだとあきれていました。
親父は働かない。母も子供が小さいので働けない。どうして生活をしてきたかと言いますと、家を売りました。家を売って安い家を買ってその差額で生活するのです。それができたのは二回だけで3回目からは借家になってしまいました。
母は仕方がないから私たちに夕食を食べさせてから仲居の仕事に出るようになりました。
ちょうど神楽坂ハンコの芸者ワルツが流行していた時代です。
あるとき母は「すうちゃん今いい歌が流行ってるねん」「覚えたから教えたる」といって芸者ワルツを歌ってくれました。
子供ですから何の意味かは分かりませんが旋律だけはすぐに覚えて私も歌っていました。幼い時に覚えた歌は忘れませんね、今でも芸者ワルツは素で歌えます。
こんな教育でよかったのでしょうか。良かったのです。何故ならまともな年寄りになれていますもの。
やっと新学期が来て学校に行けるようになりました。本当は6年生ですが5年生からです。