人生の思い出No2


 親父は働くのが嫌いな人で私が物心をついた時から、母は外に出て商売をしており親父が家にいて家事を担当していました。
 私達の子供の頃と言えば昭和の20年〜30年前半の頃で、近所ではお金持ちの家が見当たらないというように、総体的にみんなが貧しい生活をしていました。
 自分でも自分の家は貧乏だとは思ってもいませんでしたが、少し大きくなって自分の家庭を振り返れば貧しかったのは確かです。
そりゃ大黒柱であらねばならない親父が働かないから当然です。
そんな貧しい中でも子供の成長だけが楽しみという感じで、母は懸命に働いて私たちを大切に大事に育ててくれました。
 戦前に軍歌ではなく兵隊歌というのがあり、次のような歌がありました。
1 お国の為とは言いながら
  人の嫌がる軍隊に
  召されて行く身の哀れさよ
  可愛いスーちゃんと泣き別れ
2 朝は早よから起こされて
  雑巾がけやら掃き掃除
  嫌な上等兵にゃいじめられ
  泣く泣く送る日の長さ
3 乾パンかじる暇もなく
  消灯ラッパは鳴り響く
  五尺の寝台藁布団
  ここが我らの夢の床
4 夜の夜中に起こされて
  立たなきゃならない不寝番
  もしも居眠りしたならば
  ゆかなきゃならない重営倉
5 海山遠く離れては
  面会人とてさらに無く
  着いた手紙の嬉しさよ
  可愛いスーチャンの筆の跡

 軍歌というものは兵士や国民の戦意高揚を国策として出来上がったものですが、兵隊歌は兵士達の生活の辛さを慰めるために歌ったもので、軍務や上官に対する不平不満を歌ったものが多いようです。
 軍部や上官への批判は許されませんが無礼講の慰労会などでは将校も大目に見たようです。
 母は明治生まれの人ですからそういう歌はよく知っていて、私が進という名ですから兵隊歌を真似て「すうーちゃん」と愛称で呼んでいました。「すすむ」と呼ばれた記憶がありません。